信長殺し、光秀ではない (八切意外史)
教科書で教え込まれた歴史を信じている人にこそ読んで頂きたい本。
本能寺が炎に包まれたとき、明智光秀は、本能寺はおろか、京都にさえ居なかった。
目から鱗が落ちるとは、この事。
日本古代史入門
独特の歴史観を提示する八切氏が、日本の古代にスポットを当てて解説したものです。
本書では正当歴史書である日本書紀などを徹底批判し、現在では地方にわずかに残されている伝承や地名などから、真の日本古代史を考察していきます。それによると、「日本は周辺の海流の終着地点であり、世界から様々な民族が上陸してきたので、単純な単一民族ではない。そして中国や朝鮮を中心とする大陸からの渡来人によって大多数の原住日本人は奴隷として支配された。」といった論が展開します。そして現在では批判どころか話すことすらタブーとされる天皇や被差別部落のルーツ、そしてこの両者の接点についても話を進めています。
著者の展開する論は「教科書的な歴史観」からは真っ向から対立するものですが、不思議と説得力はありました。そこには何らかの真実の一端が含まれているせいなのかもしれません。もちろん歴史は権力闘争の勝者によって都合よく改変されてきたのは、世界中はもとより、近代日本の自虐史観からも明らかです。八切氏の提示する歴史観には資料が乏しいことから信憑性については何とも言えませんが、その点からすれば日本書記という正に権力者側が作った資料をその根拠にして日本の歴史を語るのもナンセンスである、と思わずにはいられません。
本書はタブーを物ともせず縦横無尽に様々な事柄に切り込みながら古代史を探求していて、随所に著者の博覧強記ぶりがうかがえました。しかしその一方で、話題はあちこちに飛び、また文章にクセがあり読みにくさを感じました。もう少し論理的にまとまった形での著者の作品を読んでみたかった、と思います。
サンカの歴史
今を去ること23年前の1987年4月28日、72歳で没した八切止夫は歴史小説家、もしくは「八切史観」とも呼ばれる独自の解釈の歴史認識を作り出した人。
この本は、彼の主著とはいえないかもしれませんが、充分に歴史的に価値のある一冊として今でも読み継がれているそうです。
サンカとは、一説には縄文人の末裔だともささやかれていますが、生活基盤を主に山間部に持ち、川魚を捕ったり竹細工で生計を営んで、地元の戸籍のある人たちとは生活習慣や信仰・生き方までまるで違う異民族のような体制外の人たちで、「山窩」という呼び方や文字をあてがったのは、明治維新のあとの国家権力=警察であって、元々は「散家」や「山稼」や「山家」などと表記したり、それからなんといっても各地でその呼び方が、「箕作」「箕直し」「おげ」「てんばもん」「やまもん」「かわらこじき」「のあい」「ぽん」などと異なっていたといいます。
要するに、何百年ものあいだ定住せず、どこの組織にも属さず世間からは得体の知れない者として生きてきた人たちを、統治する明治政府にとって目障りだということで、それと富国強兵策による徴兵のためにも、住民登録させようとやっきになって政治的に乗り出してきたという訳です。
そもそも、民俗学の首領・柳田國男やサンカ研究の第一人者と目される三角寛でさえ、最初にサンカのことを知ったのは警察からというのですから、学問の研究が民衆の中に入り込んだフィードワークをいかにおろそかにしていたか解るというものです。
彼らとの出会いは、五木寛之の『風の王国』(1985年)を読んだときにがぜん興味を持った漂泊民=サンカについてどんどん深みにはまっていった高2の頃なのか、古い雑誌を集めていたときに手に入れた『マージュナル』誌の第一号(1988年)の「サンカ[三角寛]特集」でサンカのオルガナイザーたる三角寛に遭遇したときからなのか、それとも、もっと純粋に民俗学的な地平で、柳田國男の『イタカとサンカ』(1911年)や谷川健一の『サンカとマタギ』(1989年)を読んだからなのか、それがいつどこで誰だったかということは、もうほとんどはっきりしません。
あっ、それとも、『孤島の野犬』や『マヤの一生』の椋鳩十の童話が好きだったからその延長で『山窩物語』(椋鳩十の本2・3)も読んだかも知れません。なんと児童文学の中でサンカを描いた人がいたのですから驚きです。
記述日 : 2010年04月28日 16:06:59