イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)
著者の山浦玄嗣さんが9年前に上梓された「ふるさとのイエス」を手にした時から、60年に及ぶそれまでの私の「聖書」観は根底から覆えることになった。 考えてみれば古代イスラエルに産まれ育ったイエスの風貌を、西欧風の「白人」としてイメージしてしまう習いも奇想天外な話ではある。 ところが、東北訛りのケセン語で話すイエスの言葉が、なぜか不思議に東北人でもない私の心の奥底に染み入るのを、私は決して奇想天外だとは感じなかった。
30数年前のこと。教会のミサで「聖書」の一部をケセン語で朗読し終わった山浦さんのところへ走り寄ってきた年配の女性が「ハルツグさん、いがったよ。おらね、何十年もこうすて教会さ通ってっとも今日のぐれァ イエスさまの気持ちァわがったごどァながったよ・・・」語って、涙を流したという逸話が紹介されているが、私も全く同じ気持ちを共有することができた。
本書によって、多くの人がイエスという男の気持ちに寄り添い、その思いを共有することによって、これまでの「キリスト教」の壮大な世界史的誤解の歴史を大きく塗り替え、世界をより善い方向へ変えることにつながることを願うと共に、いわゆるクリスチャンを自称する方々も是非手にとって一読されることを切望してやまない。
ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書
以前、彼はケセン語訳の聖書を作った。それは地元のあの人に、イエス様のことを伝えたい。
どうしたら伝わるのか、と考えての仕事だったに違いない。
今回は更に、「世間語訳」という体裁。日本各地の方言を用いて訳している。積極的に直接話法に置き換えを行い、
非常に臨場感あふれるものになっている。だから、これをそのまま台詞として使えば、イエス物語の演劇が出来そうだ。
私訳だから、もちろん、極端な解釈に思える部分もあるけれど、山浦氏が見た、聴いた世界が、はっきり示されている。
これは山浦氏の信仰告白だと思う。
このプロジェクトが進行中に、3.11の東日本大震災が起き、出版社は津波を被った。
しかしバプテスマ=洗礼(この聖書では、お水潜らせ)を受けたかのごとく、復活した。
バプテスマには、洗うという意味よりも、一度死んで甦る(十字架の死と復活をイメージさせる)意味の方が強いが、
まさにこの本が、復活の喜びに満ちている。