原発に「ふるさと」を奪われて~福島県飯舘村・酪農家の叫び
阿武隈山地の高原にある飯舘村は、小高い山々に囲まれた水田の稲穂が風になびき、牛が草地に寝そべる美しい村だった。三世代同居の多い家は、門構えも立派で、道路のわきの草地も整然と刈られていて、清潔な村をつくっていた。
著者は、飯舘村前田地区の区長であり、村長の菅野典雄とはともに酪農農家として農業経営に励み、菅野村長の選挙にあたっては「出納責任者」を務めるなど、いわば「刎頸の友」として村作りに努力してきた。
しかし、著者は、今、「美しい村に放射能が降った」(菅野典雄ワニブックス)に書かれたような菅野村長の「二年で帰る」復興案に反対する。著者にとっては、昨年3月11日の大震災に続いて起きた「福島原発被害・放射能汚染」の実態を隠し立てや誤魔化しなしに捉え、問題に直面化していくことによって見えてくるものを、しっかり把捉することの方が重要なのだ。
菅野村長は、遅きに失した「スピーディ」の公表をあげつらうよりも、むしろ経産省と一緒に村の振興に必要な「実利」を確保し、それを早期の「飯舘村帰還」に役立てようとしているように見える。十数年前、選挙に出るために全ての乳牛を処分してしまった村長には、もはや酪農家や農家の生活感覚は薄れているかも知れない。
しかし、著者は、酪農家・農家の立場に立って、牛やイノシシ牧場の処分、汚染された農地や山林をどうするか、前田地区を始め飯舘村の人々と議論して役場や農林水産省・経産省の役人に掛け合わなければならない。
南相馬(原町)市から放射線を逃れて難民が押し寄せた直後、3月14日の時点で、役場職員の一人がガイガーカウンターの異常に気がついていた。40μシーベルトを超える線量を示していたのである。後に、菅野村長は否定しているが、役場職員は「村長から箝口令がしかれている」と著者に言う。著者は、「隠すことなどできない」と言って、翌日、前田地区の公民館で雨の中を集まった住民に、飯舘村が放射能に汚染されている状況を説明する。しかし、その日、放射線量は100μシーベルトを超えていた・・・。
著者は、問題に正直に直面化し、その中から、実現可能な最も良い対応策を考えていくプラグマティストであるように見える。口蹄疫被害を受けた宮崎の酪農家から賠償の実態を訊き、賠償請求資料を作成するなど現実的な行動力に優れているのはそのためだ。
読者は、突然、不条理な「ふるさと崩壊」に直面した人間の、しかし、諦めることのない努力に感動させられることだろう。飯舘村が、今後、どのようになるかは分からない。しかし、著者が決して戦うことをやめないことは信じていいように思えるのである。
飯舘村―6000人が美しい村を追われた
飯舘村の人々の「村に帰りたい」「原発被害を乗り越えて、新しい生活に向かいたい」というささやかな夢は、いつ実現できるのだろうか。
環境問題ジャーナリストである著者は、飯舘村の村おこしの一つである「再生可能エネルギー事業」に関わっていた。「特養老人ホーム」に木質チップボイラーを導入し、さらに、モデルハウスとして「までいの家」を建設して、「3.11大震災」以前からこの村に足を運んでいた。だから、飯舘村が原発被害のシンボルの一つになったとき、いてもたっていられず駆けつけた。
放射線被害の実態について、著者は、環境問題に一緒に取り組んできた学者たちの意見も参考にしながら、政府、福島県、東京電力の対応を検証する。飯舘村には著者の知人も多く、震災以降の彼らの対応と合わせて「3.11」後、何が起き、何が欠落していたのか、論証する。
例を挙げれば、当初、福島県が派遣した「放射線健康リスク管理アドバイザー」学者たちは村のあちこちで「安全神話」をふりまいていった。なぜ、菅野典雄村長が、当初、「計画的避難区域」の指定に色をなして反対したのかは、このとき「100ミリシーベルトでも安心だ」と派遣された学者たちが強調しすぎたからだろう。そのため、「20ミリシーベルト」に安全基準が変更されたとき、村長は、はしごをはずされてしまったと感じたのではないか。こういったことは、当時の新聞報道を見てもはっきり書いてないから分からない。
「低線量被爆」の人体に与える影響。「晩発的影響リスク」の問題は、まだ、十分に説得力がある定説が存在しない。しかし、少なくともそれを「安全だ」と押しつけることはできない。せいぜい言えることは個人レベルの問題として「私は気にしないことにする」といったことまでだろう。
逆に「低線量被爆は、むしろ健康に良い」という「ホルミシス効果」も注目されている。「イランのラムサールは、年間200ミリシーベルトではないか。インドやブラジルでは・・・」多分、それはその通りなのだろう。しかし、「だから、大丈夫だ」と言われると、首を傾げざるをえない。
皮肉ととられる可能性が高いので言いにくいのだが、「ホルミシス効果」を主張する方々の言説が説得力を持つのは、彼らが放射線に汚染された瓦礫を積極的に住宅資材として活用し、そこで家族ともども日常生活を送るようになってからかも知れない。
飯舘村は負けない――土と人の未来のために (岩波新書)
既に風化が始まっている福島第一原発事故。当時某巨大匿名掲示板に張り付いていたことを今でも覚えています。ある時、「文部科学省の移動モニタが、原発から北西の山の方で高線量を記録した」という書き込みがあり、スレが大騒ぎになりました。「どうしてそんな所に出るんだ」「間違いじゃないのか」「誰かが危ないものを不法投棄していたんじゃないか」。この時、飯舘では44μSv/hを超える線量率を実測していたのですね。やがて水道水の汚染が報道され、京大の今中さんたちの報告があり、群大の早川さんたちの地図に赤い舌のような模様が描かれ、汚染は現実のものだと判ったのです。そうなると、掲示板上でも「これはまずい、村長はさっさと村民を避難させろ」という書き込みが溢れました。
この本は、「…は負けない」という題名や「『いつかは戻ってきたい』そのための長いたたかいが始まった」という帯の煽り(「たたかい」がひらがななのがミソ)から受ける「サヨクのアジびら」的印象とは裏腹に、「さっさと避難する」というのがどういうことかを、内側から冷静に描いたルポルタージュです。
第一章では、東日本大震災から全村避難までの経過を時系列で追い、第二章では村の行政機関等の対応を紹介しています。ここまでは村役場側からの記述が目立ちます。
続く第三章は、原発事故前の地域おこし運動の紹介。これは平和な時代の間奏曲となっているだけではなく、後の方で扱われるさまざまなグループ活動の紹介をかねています。このような地域おこし運動の成果のほとんどが放射性セシウムのために失われてしまったかと思うと切ないものがあります。
第四章から第六章がこの本のキモの部分です。著者は当地での地域おこし運動を20年来調査してきた研究者でして、そこで得た村民とのつながりを武器に、個々様々な立場からの様々な意見や願いを聞き取っています。放射線被曝と生活の兼ね合い(「いのちと健康を守る」)、慣れ親しみ汗を流してきた土や牛との別れ(「なりわいを守りたい」)、村の復興とは何なのか(「一人ひとりの復興へ」)。村長側の「できるだけ実体としての村を残したい」という意見から、「元の土地に帰ることは難しいだろう。避難先に新飯舘村を作ってはどうか」という意見まで、総論にまとめきれない各論の束として、淡々とそれらを記載して行きます。原発事故を「終わったこと」にする前に、一読する価値のある本です。