ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物 (飛鳥新社ポピュラーサイエンス)
成毛眞さんが主宰されているHONZで本書のことが取り上げられていて、ちょっと気になって読んでみた。
評者は本書を読むまでハキリアリのことはまったく知らなかったが、中南米あたりでは、普通に生息している種類のアリだそうだ。東京であれば多摩動物園でその生態を見ることができるという。
一つのコロニーに最大で数百万匹が生息、働きアリは全て雌で、雄は女王アリと交尾の後直ちに絶命、女王アリはコロニーの遺伝的多様性を保持するためかいわば一妻多夫制、名前の通り葉を切り取って巣に持ち帰りそれを養分として食糧としての菌類を繁殖させる農業らしきことをやっている等々、その驚異の生態が明らかにされている。カラー写真が多用されており、理解もしやすいのがありがたい。
本書でお父さんが予習をして、多摩動物公園に子供と一緒に行って、夏休みの自由研究とすれば、なかなかいいものができるのではないだろうか?そんな気がする。
本書によれば、ハキリアリは知能の点も相当程度発達しているようだ。それを聞いて、ブラック・スワンのタレブの言葉である「知識の問題とは、鳥類学者が書いた鳥に関する本はたくさんあるのに、鳥が書いた取りに関する本や、鳥が書いた鳥類学者に関する本は、それに比べてぞっと少ないことを指す。」を思い出した。
ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観
ピダハンは400人程の少数民族でピダハン語は現存するどの言語とも類縁関係がない。
エヴェレットは、アマゾンの真っただ中で未知の文化に接して「世界」のズレを実感した。
以下は、第六章までの断片。
.赤ん坊は、這うよりなぜか片足で漕いで動き回る。
.まとまって時間熟睡はしない。昼と夜の時間区別が殆んどない。毎日食べることもしない(漁のせいか)。われわれの常識では体内時計で説明するがそれは、普遍的ではないということだ。
.身の回りで起きていることがこれまでの世界観から余りに離れている。つまり、人は現実を同じように見えてはいない。
.「こんにちは」、「さようなら」、「ありがとう」、「すみません」などの交感的語彙がない。それは、言葉でなく行動で示される。
.色を表わす単語がない。比較級もない。右も左も、数の概念も、過去も、未来も。直接体験のみ、だから「今」しかない。
.赤ちゃん言葉がない。大人と対等と考えられている。体罰もない。引きこもりもない。親の世代とは違った生き方を模索したいということがないのだから。青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。答えはもうあるのだ、眼の前に。個性や創造性などは進化を信奉する西洋においてのみ意味を持っている。
.警察もなく、裁判所もなく、首長もいないが文化的強制力(村八分と精霊による)で共同体を律している。
.羽毛飾りをつけない。手の込んだ儀式もしない(婚姻にも、埋葬にも)。ボディペインティングもしない。道具類は殆んど作らず芸術作品はほぼ皆無。悪霊を祓うネックレスはある。個人的所有物を貯め込まない。
.「心配する」という語彙はない。抑鬱や慢性疲労、極度の不安、パニック発作などの精神疾患がない。穏やかで「どんなこと」にも笑う。自分の不幸でも、空腹にでも。漲る幸福感がある。「怒り」は、大罪である。暴力も容認されない。親戚関係は、世界でも稀にみるほどあっさりしている。「いとこ」という語彙がない。
.自分たちの存在にとって有用なものを選び取り、文化を築いてきた。自分たちの知らないことは心配しないし、未知のことを知りうるとも思わない。他者の知識や回答を欲しがらない。只、経験の直接性を重んじる。「正義」も「罪」も「神」も「天国」も「地獄」もない世界である。深淵なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がない。「真実」とは、魚や小動物を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、マラリアで死ぬことだ。
著者は、この体験からプロテスタントの伝道師をやめ無神論者となった。フロイトだって、レヴィ=ストロースだって、チョムスキーだって真っ青だろう。禅の修行だって生ぬるい。宇宙の哄笑を聴くようだ。