大手電機メーカーが「白物家電」に力を入れる動きを取材しま...(12/08/23)
家電の主役と言われたテレビに代わる収益の柱になるのでしょうか。 テレビ事業の低迷に苦しむ大手電機メーカーで、エアコンや冷蔵庫、炊飯器など、いわゆる「白物家電」に力を入れる動きが広まっています。 www.fnn-news.com
雨ニモマケズ/三浦久 Hisashi Miura
三浦久の10枚目のアルバム『祈り』(OR-007)より 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩にはモデルがいたという説があります。その人は同じ花巻の町に住んでいた、賢治よりも19歳年上の斉藤宗次郎という人です。彼は寺の三男として生まれましたが、内村鑑三の影響を受けクリスチャンになりました。彼はそのために、小学校の教師の職を追われたばかりでなく、さまざまな迫害を受けるようになりました。中でも、9歳だった長女がお腹を強く叩かれ、亡くなってしまったのです。 こんな酷い仕打ちを受ければ、普通は誰でもその土地から逃げ出したくなるところですが、宗次郎は、むしろ、その土地の人々に奉仕して生きようと決心します。毎朝3時に起き、祈りながら、新聞を配達して歩きました。雪が降れば、小学校へ行く道の雪かきをし、貧しい人たちにはお金を恵み、仕事の合間には、病気の人を見舞い、困っている人を励ましました。彼は「でくのぼう」と言われながらも最後までその生き方を貫き通したのです。 大正13年の宗次郎の日記には、花巻農学校で宮沢賢治と会ったときのことが書かれています。新聞の集金に行くと賢治に招き入れられ、一緒に蓄音機で音楽を聞き、賢治の詩のゲラ刷りを見せてもらいました。また、賢治の散文詩「冬のスケッチ」には斎藤宗次郎をもじったと思われる「加藤宗二郎」という人物が出てきます。 みちにはかたきしもしきて きたかぜ檜葉(ヒバ)をならしたり 贋物師〔いかものし〕加藤宗二郎の門口に まことの祈りのこゑきこゆ世間からは贋物師と呼ばれる「宗二郎」の戸口から、真実の祈りが聞こえてくると言うのです。異端児のレッテルを貼られ、蔑視されていた宋次郎を、賢治がいかに評価していたかわかります。 大正15年宋次郎は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越す ...