日本破滅論 (文春新書)
タイトルがいささか過激だが 中身は従来より 藤井中野両氏が主張されていることを
対談の文字起こしというかたちでまとめてあるオーソドックスな内容である。
ニコニコ動画や超人大陸で両氏の考えに親しんでいる読者であれば
すでに知っているであろうエピソードも多数含まれている。
議論の展開は 震災以後の政治経済社会情勢を 社会科学人文科学の知見を
総合的に動員しつつ 論評してゆくもので
読みやすく わかりやすいものとなっている。
「プラグマティズムの作法」や「レジーム・チェンジ」で語られていた内容を
時評に引きなおして 更にわかりやすく伝えているという側面もあり
両氏の著作の読者であれば 一気に読めるだろう。
今の日本がまさに絶望的な状況にあるということを深く痛感させられる議論展開となっており
問題の本質をざっくりととることができる好著である
TPP亡国論 (集英社新書)
京都大学の大学院に出向中とはいえ、
現役の経済産業省の官僚が書いた
TPPに対する反対論という点がまず興味深いです。
-TPPが日本を壊す (扶桑社新書)廣宮 孝信著-
と比べるとTPPそのものに対する説明が少なく、
マクロ経済学や、農業問題・安全保障に対する知識無しでは
やや理解が難しくなる読者層が出てくるのではないかという心配が若干しますが、
逆を言えばより深い考察をされている印象です。
日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率
(講談社プラスアルファ新書)浅川 芳裕著
に対しては否定はしないものの、食料における安全保障という点では
甘いのではないかという指摘をしています。
大企業の利益≒一部の国民と国外も含めた投資機関の利益と
国家の利益≒日本に住んでいる大勢の日本人の利益
というのは今の時代必ずしも合致していないという
あたりまえだけど重要な事を指摘されています。
日本のTPP参加によって日本経済のデフレは拡大し、
最終的にはTPPの主目的であるアメリカの輸出先としての
日本市場の確保も果たせなくなるという点で、
日本のみならず世界経済に対しても悪影響を唱えています。
「平成の開国」という怪しげなキャッチフレーズだけが一人歩きして、
−構造改革という言葉を思い出します−
問題点が見えないで困っている自分も含めた多くの国民と
思考停止に陥っている政治家達に大きな提言となると思います。
日本思想史新論: プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)
中野剛志さんの『日本思想史新論』を読みました。日本思想の健全性を明確に論じており、面白くてためになります。
先に、二点だけ違和感を覚えたところを述べておきます。
一つ目は、構造改革批判として、p.18で〈世界第二位の経済大国の地位からも陥落した〉と述べている箇所です。構造改革が批判されるべき事柄であることには同意しますが、その根拠に経済大国からの陥落を言うのはあまり宜しくないと思います。国民数や国土面積や鉱物などを含めた国家条件を考えるに、日本国家が世界第二位以上の経済大国でい続けることは、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと思われるからです。
二つ目は、伊藤仁斎について、p.74で〈仁義礼智は厳密には定義できないし、すべきではないというのが仁斎の考えであった〉と述べている箇所です。私には、これは間違っていると思えるのです。人倫日用を重んじる仁斎は、多角的に言葉を捉えようとしているのだと思います。例えば仁については、『童子問』には〈仁は愛を主として、徳は人を愛するより大なるは莫し〉とあり、『語孟字義』には〈道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず。故に天下のために残を除く、これを仁と謂う〉とあり、『古学先生文集』には〈仁は愛のみ。けだし仁者は愛をもって心とす〉とあります。これらの意見を総合的に視ることで、仁という言葉を明確に指し示すことに成功している、と私には思えるのです。
次に、論理構成として素晴らしいと思えた箇所を以下に挙げてみます。
<p.85>
多くの現代人が「これこそ、これからの正義の話だ」と有難がって読んでいると知ったら、仁斎は苦笑したのではないだろうか。
<p.181>
それを単なる封建反動としてしか解釈することのできない後世の学者たちは、プラグマティックなセンスにおいてはもちろん、国民国家という政治秩序に関する理論的な理解、さらにはナショナリズムがはらむ危険性に対する洞察においても、正志斎よりはるかに後れているのである。
<p.200>
子安の解釈は、福沢諭吉と会沢正志斎の双方に対する根本的な誤解に基づくものに過ぎないのである。
上記の文章は、ここだけ読んでも何のことか分からないと思うので、是非本書を読んで前後の文脈を確かめてください。見事な論理展開、およびこの結論の妙味を味わうことができると思います。
PS.
本書の批判として、『文明論之概略』と『帝室論』『尊王論』では、福沢諭吉の皇統に対する考え方が変わっているのだという意見がありますが、間違っています。p.198の〈王室の連綿を維持し、金甌無欠の国体をして〉という文章は、1874年のものであり、『文明論之概略』は1875年の刊行だからです。
<追加>
本書に対し、「仁斎・徂徠が「プラグマティズム」などという言葉・「今言」を全く知らなかった事実」を持ち出して批判している意見が出ているので、間違いを指摘しておきます。
言語学用語に、意味しているものである「シニフィアン」と、意味されているものである「シニフィエ」の区別があります。記号と意味の区別と言ってもよいですし、中野さんは「言葉と言葉が指し示す対象」と述べています。
荻生徂徠は『弁道』で、〈今文を以て古文を視、しかうしてその物に昧(くら)く、物と名と離れ、しかるのち義理孤行す〉と言い、〈礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり〉と述べています。「物」とは具体的な文物や制度などであり、「名」とは道などの抽象的な名称のことです。徂徠は、今の文章理解によって古文を読むため、物と名が合致せずに理論だけが先走っていると批判しているのです。シニフィアンが同じでも、シニフィエが違うと言っているのです。
一方、中野さんは、実学とプラグマティズムは、シニフィアンが違っていても、シニフィエが同じだと言っているのです。
両者とも、シニフィエの次元で意見を述べているのです。それを、シニフィアンが違うとトンンチンカンなことを言って批判している気になっている人がいます。本書を読んでも内容が理解できておらず、徂徠を読んでも内容が理解できていないと言わざるを得ません。