ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)
120年以上前(南北戦争よりちょっと昔)のアメリカで書かれた小説であり,ヘミングウェイも絶賛したことで知られるトウェインの名作。
アル中の父親から逃げ出したハックと奴隷支配から逃げ出したジムとが織りなす冒険の日々は,そのまま現代アメリカの児童虐待と黒人差別の問題に連なっているように読める。
これらの問題がアメリカの「陰」であるとすれば,彼らの求めた「自由」こそがアメリカの「光」(=デモクラシー)の源なのかも知れない。
冒険の末に彼らを待つ運命は,果たして救いのあるものと言えるか言えないか。
『ライ麦畑でつかまえて』などを読んでアメリカを感じられた方には,ぜひ,ハックの冒険もお読みいただきたい。大人が読んでこそ感じるものの多い作品だと思うので。
ハックルベリー・フィンの冒険 下 (岩波文庫 赤 311-6)
読んでいる最中も、そして読了してからも思ったことは、
感嘆と同時に「何でもっと早く読まなかったのか」という自問であった。
それは「児童文学」の傑作でしょと「所詮児童文学」だという<みくびり>が
自分のなかにあったからだと思う。
しかし、これは読んだ者だけがわかることだが、
手に汗握る冒険物語にとどまらず、これは人間の「自由」について問う人類の大傑作である。
この本は一度読んだらもう捨ててもよいという本のたぐいには入らない。
私は、この岩波文庫本上下巻のどちらかを、
ウィスキー・フラスコを旅に持っていくように、
いろいろな旅に携えていきたいと思っている。
訳文も、ハック自身が言うところの「下等」ぶりの口調が素晴らしい。
また忘れてならないのは、Edward Winsor Kembleの挿絵も本当に素晴らしい。
オトナ顔負けの「仕事(task)」をなんなくやってのけるハックの
アンファンテリブルぶりは、ケンブルでなければ描けなかったのではあるまいか。
訳者による巻末解説で、このKembleの挿絵の貢献について一言も言及がなかったのが残念である。
とにかく、
ハックルベリーフィンは私の心の永遠の友人となった。
ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)
前作『トム・ソーヤーの冒険』で一躍金持ちの身分になった浮浪児ハックルベリイ・フィン。規則でがんじがらめの生活に嫌気がさしたハックは後継人から逃げ出すが、飲んだくれの親父に捕らえ、監禁される。ととうハックは自分が強盗に殺されたかのように偽装をし、筏で逃げ出す。ジャクソン島にたどり着いたハックが出会ったのは、逃亡奴隷のジム。かくして出会った2人は、自由州ケイロを目指して筏でミシシッピ河に漕ぎ出す。・・・
トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』の続編ですが、ハラハラ、ドキドキしながら物語に熱中できるのはこちらの作品ではないでしょうか。浮浪児の不良少年として評判の良くないハックが逃亡奴隷のジムと冒険を繰り広げるのですが、自由を目指す彼らの目の前に現れるのはいかさま詐欺師や、激しい名門家の抗争など、ダークな大人の部分ばかり。当時のアメリカを風刺している一面もありますが、賢くたくましく世の中を渡っていくハックの姿には、爽快な気分さえ感じました。一緒に旅を続けるうちにいつしか仲間となっていくハックとジムの友情や、ハックの淡い恋心、そしてモラルと良心の間の葛藤など、読んでいて最高に面白い冒険小説です。
訳されたのは、『赤毛のアン』でおなじみの村岡花子さん。生き生きとした語り口が、さらにこの物語の面白さを盛り上げています。ただ残念なのが、ハックが自分のことを「僕」と呼んでいること。個人的にハックには自分を「おら」、もしくは「俺」と呼んでほしかったのです。そのために星は4つになりました。