俺俺
星野さんの本を読むのは初めてである。
読みながら、あまりの怖ろしさに震えそうになる。
会話が生々しくてリアルである。
職場の人間関係が、読むだけでじわじわと
真綿でくるまれるような窮屈さで迫ってくる。
親子や家族が、これほど似通って
かたちだけのものだったとは、と
嘆息する。
冒頭からほぼ終わり近くまで、主人公(無数にいるのだが)を
支配する感情は怒りといらだちである。
しかし、最後に、「俺」が
「うああん、うああん」と泣く場面に遭遇すると
読み手も泣きたくなってくる。
この世界が(すでに)戦場になっていることを
本書は実にたくみに描き、
そう気づく人が多くならない限り
苦しい日々は続くと告げているようだ。
無間道
p24
「体液が干からび目の部分が黒ずんでウジが蠢いているそれらを避けて、
竹志は右に左に体をかわした。強い日差しに照りつけられ、逝体どもは
揺らめいてみえた。折り重なった逝体の、下敷きになったほうが液化して、
油膜をギラギラと輝かせながら歩道いっぱいに広がっている箇所では、
仕方なくその粘液溜まりに足を踏み入れた。強い刺激臭がマスク越しに
鼻をつく。竹串でも突っ込まれたかのような痛みが鼻腔の奥を走り、
涙が出る。」
多くの人が逝ってしまうお話です。
逝ったあとには醜い「逝体」となってそこらへんにころがっています。
「逝体」の描写はとても気持ちが悪いです。
p78
「死んでも死ななくても、苦しい生を生きなくちゃならないことに変わりはないから。」
「苦しい生」を生きている人々は、傍からみれば醜い「逝体」なのでしょうか?
生きているから腐敗したりしていないだけで、「苦しい生」を生きている現代の日本人は
傍から見れば、「腐乱した逝体」(p21)のようなものなのでしょう。
気がつくと自分も「腐乱した逝体」のような顔をしている時があります。
ファンタジスタ (集英社文庫)
3つの中編小説の1つが「サッカー小説」=「ファンタジスタ」。他2編のうち1つは芥川賞候補作である。
どの作品にも幻想的と呼ぶにはやや泥臭い、というかややチープな、それでいて独特の雰囲気はしっかりもった〈ホシノワールド〉が存在している。
「ファンタジスタ」は近未来というよりはむしろパラレルワールドに同時並行的に存在する〈もう一つのニッポン〉の数年後の姿のよう。
「大統領」に立候補したサッカー界の大物。階層化が進み隊列が長くなる社会。
「国際化」に埋没していく大多数の中下層〈ニホンジン〉。フットボールと呼ばれるようになった〈ニホンのサッカー〉。主人公の恋人?が愛用する異様な「抱き枕」。
キーワードとして使われているボールリフティング。
リアリティーがあるようなないような。幻想的であるようなないような。
そこに〈サッカーの真実〉はあったか?〈人生の真実〉はあったか?
〈閉塞感〉だけはあった。
「現代社会を覆う閉塞感」などとこの作品世界の〈閉塞感〉を対置させるのはあまりに陳腐に過ぎよう。〈閉塞感〉はそのものとして受け入れよう。
そのうえで、その〈閉塞感〉を突き抜けた向こうにある〈ナニモノか〉の存在を本書のなかに感得できたか?僕は感じることができなかった。存在の暗示すらも。
閉塞され、その向こう側に待つ〈ナニモノか〉を感じ取れない世界。それもまた〈サッカーの真実〉なのか。